最近、事故があって、股関節骨折した上で、しばらく体の不自由になったら、数年前に書いた論文を思い出した。それは、シカゴの友達のところに遊びにいったときの出来事です。彼が面白半分に、私たちの若い頃よく弾いていたアコーディアンを取り出しました。かれが弾くのに合わせて、私も面白半分に、私たちの若い頃よくやっていたように踊りました。私は今は滅多に踊りませんが、その時はへ;屋の中をスイスイ回りながら、音楽のリズムに合わせて体を動かす喜びに浸っていたのです。踊りのスピードはどんどん上がり、調子に乗りすぎた私はいきなりつまずき、ドスンと尻餅をついて気づいたら、なんと足が折れていたのです。
幸い、正月休みでしたから、サンフランシスコ近くの自宅に戻り、ゆっくり回復を待つことができました。実は、友達とハイキングに行く予定だったのです。「そう、喜びはタダじゃないことを教えられたってわけだ」と彼女は言いました。「まったく」私は答えました。「ただじゃないよね」。
受話器を置いてから、彼女の言ったことを考えました。素晴らしいことを手にしようとするのはいいけれど、それは決して易いことではない。普段やっている以上のことをやれば、必ず危険が伴う。ひとは未知の世界に足を踏み入れる時は、弱いものなのです。しかし、人生に期待と意味をもたせているのは、そうした危険なのだ。自分の人生を精いっぱい生きるなら、好機を捕らえて自分の限界に挑まねばならない。
ハイキングに行けなくなったので、勢いソファに座って、テレビを見ることになりました。日本からアメリカに送られてくるテレビ番組が目に止まりました。107歳のおじいさんへのインタビュウでしたが、これには教えられました。おじいさんは、自分の人生に悔いはない。タダ感謝と喜びあるのみ、と言ったのです。他の100歳以上のお年寄りとのインタビューでも、同じような長寿の秘訣が語れていました。なんでも明るく考えることが、健康をもたらす。長生きしているひとは、コップの水が「半分しかない」ではなく「まだ半分ある」と考えるのです。
私は骨折した足を見つめ、前向きに考えようと思いましたが、はじめのうちは、どうしても悲観的にしか考えられませんでした。痛い。歩けない。不自由だ。自由に歩けるひとが羨ましい。どうしても惨めな気持になるのです。
でも、その時、英国の詩人、テネスンの激励の言葉を思い出した。「愛をまったく知らないでいるより、愛を知って失うほうがいい」。確かに愛はそうだけれど、果たして「まったく踊らないより、踊って足をおる方がいい」と言えるのだろうか、と思ったのです。
そう、言えるのです。瞬間ではあったけれど、私は喜びを味わいました。この事項は私に、もう若くないのだから体にもっと気をつけなければならないことを教えてくれ、私よりももっと難渋しているひとを思いやる心を与えてくれました。そして、私を労ってくれたひとに感謝の念を覚えたのです。
私はまだ、自分が結構踊れることを知りました。足さえもつれなければ、の話ですが。そして、あしのギプスが外れた暁 には、少しダンスのレッスンを受けて、本当に上手になろうと思っています。